花が開く瞬間を見たくて

花が開く瞬間を見たくて

はじめまして、EPANOUIR代表の

久留さと子と申します。

ルノーアジア太平洋地域統括本部社員を経て独立。

英語とフランス語の通訳、翻訳、講師。

インフルエンサーをしております。

宮崎駿監督、G20、ラグビーワールドカップ

ノーベル賞受賞者の会、現役大臣通訳。

Le monde、Figaro、France1、France2、ArteTVへの

日本のニュース企画制作などをしています。

 

 

私は、ガボン、カメル―ンという

フランスの植民地だったアフリカの

国々で幼少期を過ごすという

少し不思議な経歴がありまして

 

日本人学校などないので

フランス人学校に通うことになり

超絶スパルタな家庭教師に師事し

毎日何時間も勉強して、やっとのことで

フランス語を獲得し、校長先生が

わざわざ両親に挨拶をしに来るまで

“外国人なのに優秀“な分類に入りました。

 

それが帰国すると一転。

何も出来ない人に変わりました。

見たこともない跳び箱をとべと言われ

見たこともないリコーダーを試験で

いきなり吹きなさいと言われる。

 

「やり方がわからないから

練習するのに1週間下さい。」

と、申し出たら

「大丈夫だから、試験受けなさい」

と、先生に言われ、仕方なく

4人くらいずつで並んで演奏する

“ふり”をしたのです。

 

アルファベットも覚えたし

フランス語も使いこなせるようになるまで

スパルタ式に習ったのはきつかったけれど

出来るようになるまで、先生は諦めなかった。

(許してもくれなかった)

日本の先生は、私がリコーダーをふける事は

求めていないのだと寂しく思いました。

 

出来ないことを出来るように

一生懸命努力しても、フランス社会の様な

わかりやすい評価はなく、とにかく

「人と違ってはいけない。」

みんなと同じような雰囲気を出すことに

全エネルギーを注ぐようになりました。

 

人と違う良さを伸ばすことが良いという

考え方から180度の方向転換に戸惑いつつ

自分に自信がないまま大学生まで過ごしました。

名前の順番に呼ばれても、蚊の鳴くような声でしか

返事ができず皆勤賞なのに欠席扱いされる日々。

 

それでも、どうしてもフランス本国に行きたいと

思い立ったのは大学3年生の頃。

憧れというよりも、宗主国としてのフランス。

そして、やれば認めてくれる国にもう一度行きたい。

 

帰国して、頭も心もおかしくなりそうだった

アフリカに帰りたいと泣いてばかりいた小4からの私を

支え続けてくれたのは、フランス語であり、先生達でした。

 

いつか、大人になったら生徒さんの価値に気づき

伸ばし、一流に出来る先生になりたい。

または、自分が間に入ることによって心温まる

交流ができるような通訳になって日仏の架け橋になりたい。

そう思っていたので、どうしても留学をしたいと思いました。

 

フランス語教授法という大学院過程があることを知り

フランスの王侯貴族が過ごしたというロワール川流域の

トゥール大学大学院にロータリー財団の国際親善大使として

留学することになりました。

意気揚々と赴くと、到着した日に、電車内でカツアゲにあい

1週間後に911のテロ事件。カミカゼがやったと速報が流れ

アラブ系の方に「アメリカ人を殺してくれてありがとう」

と、抱きしめられるから怖くて街を歩けない。

大変な時に、大変な場所にきてしまったと

クヨクヨしていたら10月から大学院スタート。

今度こそ、心機一転!学問の道を究めるぞと

教室に行くと、「部外者は外に出なさい」と言われる。

 

「いえいえ、入学許可証を頂いています。」

と、見せようとしたら、なんと

「間違いね。」の一言で、追い出されました。

それから3週間、途方に暮れながら毎日の様に

学部長の部屋を訪れ、いかに自分のモチベーションが

高いかをアピールしましたが全く相手にしてもらえず。

 

木の葉も散り、もうどうして良いか孤独だし理不尽だし

でも、聴講生なんて嫌だし。

私にも受ける権利があるはずと可能性を模索していて

やぶれかぶれの私はこう言いました。

 

「フランス人ネイティブじゃなければダメだと

おっしゃるけれど、そのやり方があっているなら

今頃、日本人の友人はみんなフランス語ペラペラ

だけど、現実はそうじゃない。フランス語がいかに

理不尽で難しいか。どこで躓くか私は教えてあげられる。」

 

と、言ったら、翌日から正式な学生にしてもらえました。

そこで学んだことは、私のやる気なんてどうでもよく

いかに彼らのメリットになるかを証明するかということ。

 

この後も前途多難な留学生活で、遊学とは程遠かったのですが

最後の最後、論文発表の日、学部長と指導教官に

「ネイティブじゃないのに教育実習をすることが

大変だったら、ハンディキャップがあるから無理だと

訴えれば良かったのに、なぜ言わないで頑張ったの?」

と、言われ、全身の力が抜けることがありまして

そこでの教訓は、

「やるべきものだ」と、勝手に解釈して、無理をするのではなく

自分の状況を冷静に報告して、適切な救済措置を受けても良いということ。

裏を返せば、包丁で刺されて死にそうでも

「包丁で知らない男に刺されて苦しい。助けて」

と、訴えなければ、誰も助けてくれないということ。

ネイティブじゃないから、教壇に立たせられないと

教育実習を断られまくっていたのですが

それで負けたら落第させられると思って相談をしなかった。

頑張らないといけないと思い込んでいた。

 

その当時の経験は、今も非常に生きています。

結婚したから、母になったから、私がやらなければならない

私が頑張れば良いんだというマインドになっても

「子どもに頼んでみようかな?」

「夫に頼んでみようかな?」

「母に頼んでみようかな?」

と、思うことができたからです。

 

普通だったら、図々しい、おこがましいこと。

でも、もしかしたら、それは私の思い込みだから

聞くだけ聞いてみよう!と気軽に思えることは

私のソトママとして活動する今を助けてくれています。

 

おかげ様で、なりたかった念願の通訳、翻訳、講師

更にはインフルエンサーという仕事を担わせて頂き

中学受験真っただ中の長男を置いて、G20や

ラグビーワールドカップ、Youは何しにニッポンへの

密着取材をすることができました。

 

私、この仕事をどうしても受けたい。

挑戦してみたいということは毎回家族にプレゼンします。

家族が眉を顰めることはしたくないですから。

私が日々、勉強し努力し、磨いていることを

知っているからこそ、ビッグチャンスが来た時に

NOと言われた事はほとんどありません。

 

大切な時期に不在にしても、ママが今この場にいなくても

ママと共にあることを僕は実感しているから大丈夫だよと

長男も言ってくれました。

 

やっていいことかどうかは各家庭が決めること。

一般的にはどうだから、この枠で留まろうとか

そんなことはどうでも良いと思うことができたら

ブロックになっていたものがポロリととれるかもしれません。

 

フランス語だけじゃなく、英語も日本語も磨き続けることで

お仕事の幅も広がりました。言語だけじゃなくSNSを学ぶことで

また新たな可能性が生まれました。

強みというのは、これだと思った時から足していけるもの。

今ないものに目を向けるよりも、やりたい理由、やれる理由に

フォーカスしていくことを誰も止めないと思います。

 

あ、わかった!あ、そういうことだったんだ!

と、わかった瞬間、分かり合えた瞬間の笑顔を

花に例えてその開花の瞬間を表すフランス語の動詞

epanouir「開花する(瞬間)」という屋号をモットーに

熱く、温かく、活動をしています。

 

通訳の私がいなくても、ハグしあえちゃう位に意気投合する

日本人が沢山うまれる事を願って。

生徒さん達の留学、遠征、表彰式に呼ばれて世界中に飛び回る

可愛いおばあちゃんを目指してソトママ街道を進みます。

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